日本山岳耐久レース 長谷川 恒夫カップに参加
春より本場アメリカでの数多くあるトレイルランニングレースに参加していますが日本にも登山競争や山岳耐久レースという名前で山を走る大会があります。その中で最も大きな大会とされる日本山岳耐久レース 長谷川恒夫カップに参加してきました。
この大会は東京都山岳連盟が主催し、美しい奥多摩の自然の中で、自己の限界に挑戦し、強い体を鍛えることを目的としてハイカーやクライマーに限らず人々の体力作りのために毎年1000人以上が参加して行われています。そしてこの東京都山岳連盟に所属していた世界的クライマーでありました故人・長谷川 恒夫氏の偉業を称え長谷川恒夫CUPが設けられました。コースは全長71,5キロ、奥多摩で20近くにも及ぶ山のピークを通過するループコース。制限時間を24時間以内として参加選手は水2リットル、ライト、代え電池、防寒具、食料を必携装備として義務付けられ、マラソンとは異なり水分補給のみのエイドステーションが40キロ地点に1箇所あるだけなので走るペースによって持って行く水や食料の量を考慮し、スタートが昼の1時なので数時間も経つと暗くなってしまうため選手はライト等の明かりを持って走らなければなりません。
今年でこの大会は10回目を迎え、高校生から76歳まで登山をする方々を始め、ランナーやトライアスロン、アドベンチャーレーサーなど過去最高の約1300人が参加し、僕は2年ぶり3回目の挑戦となりました。10月13日、秋晴れの五日市の庁舎を一斉にスタート。71.5キロという長いレースにもかかわらず先頭はマラソンのショートレース並みのスピードで飛び出し、10分もしないうちにトップグループは見えなくなりました。舗装路を2キロほど行くと広徳寺から登山道に入ります、石や木階段をしばらく登ると選手たちは呼吸が乱れ、汗だくになっています。関門は全部で3箇所、第一関門までは22キロ。山道の1キロと言うのは非常に長く、5キロごとに距離標識がありますが舗装路の感覚で行くと果てしなく遠く感じます。1時間半もするとコースは山の尾根線に出て登り基調でアップダウンを繰り返し、選手の間隔も落ち着いてきます。僕は第2グループにいて左右の景色を眺めながら、時には他選手と話をしながら走っていました。そばにいた選手は富士登山競争上位常連選手やフルマラソンを2時間10分台で走る人もいました。山のレースはマラソンのように常に走っているわけではありません、登りでは歩き、平坦なところや下りで走るので歩いているときに会話が出て様々な情報交換ができます。
第一関門を4位で通過。スタートから自分のペースを上げているつもりはないのですが、前半飛ばしすぎた選手たちが落ちてくるといった感じでいつの間にか4位になっていました。関門ではベンチに座り、食料を補給しました、その間に数名に抜かれましたがまだ食べ続けていました。

こういった長いレース、お腹が空いたらもうペースは上がりません、どんなレースでもそうですが僕はひたすら食べています。コースはさらに登り始め大会最高地点、三頭山を目指します。スタートして5時間、この頃になるとだいぶ日も落ちてきて西の山々が黒々と見え尾根線がオレンジ色に輝いていました。なんとか夕陽のわずな明かりを頼りに三頭山山頂まで登りそこでライトを取り出しました。そこからナイトランでしばらく行くと第二関門42キロ地点、3位で到着、水分補給を行い先を急ぎました。ここで初めて、先頭の2人が今回10回大会ということで韓国より山岳ランナーを招待していてその選手2名が前を走っていることを知りました。前との差は10分、残り30キロでコースは下り基調、まだ少しの余力を残して先頭を追いかけました。さらに15キロ先の御岳山手前にある第三関門までまだ前を行く2人の姿を見ることは出来ずに通過するとその差は2分にまで縮まっていて、その先は今まで残していた余力を使うスイッチが押されたかのようにペースが上がり、どんな激下りでも重力に任せて走り下っていました。すると5分も行かないうちに1人を抜き、残り3キロないところでさらにもう一人を抜きいつの間にか自分が先頭を走っていました。山から下山すると夜の10時、あたりは真っ暗で、庁舎前だけはかなり明るく照らされています。そしてその人だかりの多い中にあるフィニッシュラインへトップでゴールしました。時間は8時間46分41秒、大会新記録で優勝することが出来ました。
今回は非常に体調がよくて、春に故障した膝の痛みや疲労により足が攣ることも無く、全てにおいて気持のいい走りができたレースでした。
そしてレース翌日より懲りずに再度アメリカ・バージニアへトレイルランニングのレースを参加するために向かいました。